≪幼児期~小4≫

4歳から2年間ヤマハ幼児科に在籍し

個人レッスンに移行。

 小4まで山形でのんびり育ち

小5の時、東京に引っ越す。

 

≪小5~中3 ≫

 それから、音高入学までの5年間

毎日新聞社主催コンクール(毎コン)で

安川加寿子先生と肩を並べて審査員を

務めていた大堀敦子氏に師事する。  

 

≪音高、 音大≫

国立音大付属高校に入学。

 

音大4年の時に、念願だった

モーツァルト弾きのリリー・クラウス

助手をアメリカで勤めていて帰国後

芸大でも教えていた菅野洋子氏に

1年間だけ師事することができた。

 

小さい時から、そこそこ

器用に弾けてしまっていた私は

きちんと手ほどきを受けたことがなく

自己流で勝手に弾いていたので

この時、初めて

本当のピアノの弾き方を

一からやり直して伝授され

今の私の原点になった。

 

 それまでの私は技巧的な派手な曲しか

与えられておらず、一見(聞〕すると

上手く聞こえたのだ。

当時の音大ではその方が成績が

良かったのだ。

今では考えられないことだが・・・。

 

しかし、音数の少ない曲をじっくり

練習したことがなかった私は

自分の音を聴くこともせず

難しい曲を必死に

 弾くことに慣れていた。

いつも体に力が入っていて

脱力どころか

”ピアノは全精力を使って頑張って

弾くもの”と、思い込んでいた。

また、それを指摘して頂ける

チャンスもなかった。

今考えてみると

”最悪の弾き方”だったのだ。

 

菅野先生とのレッスンが始まったが

曲は弾かせてもらえず

1音弾いたら違うと言われ

ピアノからどかされて先生の弾き方を

横で、ひたすら見ているだけという

レッスンが春から10月の初めまで

続き、それからやっと卒業試験の曲に

とりかかった。その頃

学年で一番をとるのは菅野門下と

決まっていたので、信じてやるしか

私には選択肢はなかったのだ。

 

その時の先が見えない

試行錯誤の日々を振り返ると

「よく試験に間に合った

ものだなあ~」と今でも思う。

きっと

先生も必死だったに違いない。

結果、読売新人演奏会に選ばれたのを

誰よりも喜んでくださったのだから。

 大4の1年間と卒業しての1年弱で

本当の意味でのピアノの勉強を

菅野先生の下でした、と

言っても過言ではない。

 

 ≪卒業後≫

大学3年の時に母の病気が分かり

大学院を諦め卒業。

1年間だけヤマハ音楽教室に勤務し

主人と結婚。

菅野先生に、「大学院を諦め転勤族の

相手と結婚をするため、ピアノは

できなくなる」とお伝えしたら

はなむけにリサイタルを

企画してくださった。

まだ未熟な私だったが、良い経験を

させて頂けたことに感謝している。

そして

菅野先生に巡り合わなかったなら

今の自分は無かったのかと思うと

天国にいる先生に、足を向けて

寝ることはできないと思っている。

 

転勤族の主人について全国を転々と

したが、25年前から、

野田市に定住し現在に至っている。

それを機に、ヤマハの講師を

再開する。

音高の時から近所の子を教えていた

ので指導暦は30年以上になる。

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